きみのいま(仮)

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美味しいということ

その食べ物が美味しいか美味しくないかを分かるようになるには、どれだけほんとうに美味しいものを食べたかの経験値がものをいいます。
香り、味、食感など、美味しいってこういうことなのねと、じぶんの体で感じてこそ身につくもの。


価格じゃない、鮮度でもない、手作りか否かでもない、オーガニックか否かでもない。
いまはテレビだけではなく、ネット上にも様々な情報が溢れかえっているけど、美味しいというのは画一化されたものではなく、個人の感覚の中で育ち決まるもの。


何度美味しくないものを食べても、全く身につかない感覚。
だからこそ、会心の一撃の美味しさに出会えた時は、その味と経験を大切にしたい。


また、この情報の海に漂う社会では、せっかく体感する機会があるのにもかかわらず、あまたの情報に翻弄されて、じぶんからその機会を放棄しがち。ものすごく勿体無い。


じぶんの体で感じて学んで、経験値や判断材料にしていく。
情報過多の時代だからこそ、情報との距離の取り方、活かし方を考えつつ、体が喜ぶ感覚は忘れないようにしていきたい。


こういう形だから美味しいとかこのくらい小さいから美味しいとか、美味しいは頭で考えるものではない。
わたし達はロボットではなく様々な繊細な変化も感じとれる生身の人間。だからその人ならではの美味しいがあるのも当然のこと。


いつから美味しいは、工場のベルトコンベアに乗せられた製品のようになってしまったんでしょうね。

春が連れてくる幸せ感

立春の日。


日中はポカポカで暑いくらい。
元赤坂の明治記念館から新宿駅まで移動をかねて散歩をしたのですが、いかにも春という陽気で、歩くのがとても楽しいじかんを過ごせました。


それにしても、なんでこんなにも春という響きは幸せなきもちになるんでしょうね。
春という音を聞くと、暖かな空気、柔らかな日差し、満開の桜、澄み渡る青空などが浮かんできて、気付けば笑顔になっています。


木の芽が張って、青く輝く晴るる空、そして心も晴れて幸せ感でパンパンに張る、そんな春。


三寒四温を経て徐々に近づいていく、その過程がより一層春を嬉しいじかんにしてくれます。
今から春本番の頃が待ちどおしい。


そして今年の春は、今までと違う春を迎えられそうなわたしです。
長きに渡って冬の季節を過ごして来ましたが、ようやく自身の中にもはっきりと春を感じられるようになりました。
はじめての感覚にまだこそばゆい感じですが、ただただ嬉しいですね。


ことしの春は色々な意味でたのしい時間になりそうです。

節分 新しい年へ

立春前の節分は、年4回ある節分のなかでも、太陰暦において大晦日にあたる日。
元旦同様に、古来、新年を迎えたのが立春です。
恒例行事の、豆を撒いたり、恵方巻きを食べた方も多いんじゃないでしょうか。


今日は日中、某百貨店で仕事。
店内の食品フロアも、恵方巻きを求める方達で大混雑していました。


お正月にしろ節分にしろそうなんですが、開運とか招福とかが絡む行事などは、いつも以上に人が集まりますよね。
幸せになりたいと願うのは、人の欲求のなかでも、ごく自然なこと。


大混雑の押し合いへし合いをしてまで、恵方巻きを買い求めようとする人の列を眺めながら、ところで幸せというのはどんな状態だろうというのがふと頭をよぎりました。


たくさんお金があること。
美味しいごはんを食べたいときに食べられること。
周囲から認められること。
多くの方から愛されてモテること。


人の数だけ、それぞれに幸せの定義があると思います。
でもね、もしそれらが満たされたら本当に幸せなのかなということも、同時に感じます。


例えばお金が幸せの定義だったとします。
もし、何かしらで多額のお金が舞い込んだとしても、自身が病気だったり、孤独だったりしたら、それは幸せと言えるのかなと感じます。
また、お金がたくさんあっても満たされず、もっともっとお金が欲しいと渇望感でいっぱいなら、それも幸せと言えるのかなと思うのです。


表面上の状態よりも、どんなじぶんでありたいのか、じぶんが嬉しいことはどんなことか、そういう事を真剣に考えるほうが大切じゃないかなと感じます。


生きていくうえで、物やお金ももちろん大切だとは思います。
ただそれ以上に、外側からの豊かさよりも、自分がどうしたいのかという内側の部分を満たす方が、よっぽど幸せな状態ではないかなと感じるのです。


新たな年というよい節目。
せっかくの良い機会なので、改めて、じぶんにじっくりと向き合って心のベクトルを確認してみようと思います。